【後編】公正取引委員会調査にみる芸能契約の現在地―パッケージ時代の残滓と360度ビジネスの狭間で求められる「公正な関係」とは

第4 公正取引委員会の提言とその限界
 こうした歪んだ状況に対し、公正取引委員会の一連の調査報告書は、独占禁止法という強力な法的枠組みを背景に、業界の自浄作用を促す重要な役割を果たしています。しかし、その指摘には大きな意義がある一方で、見過ごすことのできない限界も存在します。

1 調査報告書の意義と貢献
 最大の貢献は、これまで「業界の常識」や「暗黙の了解」として水面下で行われてきた不透明な取引慣行を、アンケートやヒアリングという客観的な手法で可視化したことでした。具体的には、以下のような問題点が公の場で論点として整理されました。

●契約の不透明性
 約3割の事務所が依然として「全て口頭契約」である実態や、契約内容の十分な説明がなされていない問題。

●移籍・独立の妨害
 不合理な競業避止義務、育成投資の回収という名目を逸脱した高額な移籍金の要求、退所後の活動妨害など、アーティストの自由な移籍を阻む様々な行為。

●権利・報酬の問題
 芸名や過去の成果物の利用制限、不透明な報酬体系など、アーティストが正当な対価や権利を得られていない実態。

 これらの行為が、独占禁止法上の「優越的地位の濫用」「排他条件付取引」「取引妨害」「欺瞞的顧客誘引」などに該当しうることを明確に示したことで、事業者にコンプライアンス遵守を促し、業界全体の取引慣行を見直すための羅針盤を提示した功績は極めて大きいと言えます。

2 「べき論」と「実態」の乖離〈調査の限界〉
 一方で、この報告書に対しては、「業界の実態を十分に理解していない行政が、杓子定規に違法性を判断している」という批判も根強く存在します。もちろん、公正取引委員会も、全ての行為が一律に違法となるわけではなく、「個別事例ごとの具体的態様に照らして判断される」と慎重な姿勢を示しています。
 しかし、まさにこの点が問題の核心でもあります。報告書で多用される「合理的な範囲を超えて」「不当に」「過度な」といった表現は、その基準が曖昧であり、かえって現場の混乱を招きかねません。アンケートやヒアリングという調査手法は、問題の全体像を把握するには有効ですが、個々の契約に至るまでの複雑な経緯や、当事者間の力関係、交渉の機微といった、ビジネスの生々しい実態を完全にすくい上げることは困難です。
 例えば、芸能事務所が主張する「育成投資の回収」は、正当な事業活動の一環です。その投資額には、レッスン料のような目に見える費用だけでなく、マネージャーの人件費やプロモーションに割いた時間など、数値化しにくいコストも含まれます。この複雑な投資と、アーティスト個人の才能や努力がどう絡み合って成功に至ったのか、そしてその貢献度に応じた「合理的な」取り分はいくらなのかを、取引の当事者ではない行政が事後的に判断することには、本質的な難しさが伴います。
 結果として、公正取引委員会の報告書は、独占禁止法上の「あるべき論」を示すことには成功したものの、デジタル時代の多様で複雑なビジネスモデルに即した、具体的で実用的な契約モデルや紛争解決の指針を提示するには至っていない、という限界も指摘せざるを得ません。この「べき論」と「実態」との間に横たわる溝をどう埋めていくかが、今後の大きな課題となります。

第5 デジタル時代の「対等なパートナーシップ」に向けて
 公正取引委員会の調査が明らかにした数々の問題の根源をたどると、一つの結論に行き着きます。それは、パッケージビジネス時代に形成された、事務所やレコード会社を「投資家・支配者」、アーティストを「被投資対象・被支配者」とみなす垂直的な関係性が、もはや現代のビジネス環境に全く適合していないという事実です。この古いパラダイムから脱却し、新たな時代のパートナーシップを構築することこそが、業界の持続的な発展のための唯一の道筋といえるのではないかと考えられます。

1 求められる三者の対等な関係
 デジタル時代のエンターテインメントビジネスは、もはや一つの企業の力だけで完結するものではありません。そこには、それぞれが異なる専門性を持つ「三者の対等なパートナー」が存在します。
① レコード会社:原盤制作のノウハウとグローバルな流通網を持つプロフェッショナル
② 芸能事務所:アーティストの才能を見出し、育成し、多角的な活動をマネジメントするプロフェッショナル
③ アーティスト:創造性と実演を通じて、人々を魅了するコンテンツを生み出すプロフェッショナル

 ヒットサイクルが短期化し、ビジネスが多角化する現代においては、この三者が互いの専門性を尊重し、迅速かつ柔軟に連携できる水平的な関係性を築くことが不可欠です。一方的な支配や不当な拘束は、変化のスピードに対応できず、結果として三者すべての利益を損なうことにつながります。

2 公序良俗と合理性の再認識
 この対等なパートナーシップを築く上で、契約の基本原則である「公序良俗」と「合理性」に今一度立ち返る必要があります。契約書に書かれているからといって、それが社会的な常識や正義に反するものであれば、法的に無効となる可能性があることを、全ての当事者が再認識する必要があります。
 特に、アーティストのキャリアそのものを左右する契約終了後の活動制限条項については、その合理性が極めて厳格に問われることも想定されます。

●目的の合理性
 制限を課す目的は何か。それが「育成投資の回収」という正当なものであっても、単なる「移籍の妨害」や「引き抜き防止」といった反競争的な目的が隠されていないか。

●手段の合理性
 その目的を達成するために、アーティストの活動を広範に禁じるという手段が本当に必要か。期間、範囲、対象となる活動は、必要最小限に限定されているか。

●代替措置の存在
 より競争制限的でない他の手段はないか。例えば、再録禁止期間を設ける代わりに、合理的な対価で権利そのものをアーティストに譲渡する、あるいは、サンセット条項(移籍後の収益の一部を一定期間、元の事務所に分配する条項)を導入するなど、より柔軟な解決策を模索することが求められます。

 アーティストの活動を不当に制限しない配慮は、倫理的な要請であると同時に、独占禁止法違反のリスクを回避するための経営判断でもあります。

3 結語
 エンターテインメント業界が、公正取引委員会からの厳しい指摘を真摯に受け止め、未来志向の関係性を構築するためには、具体的な行動が必要です。
 第一に、契約の透明性の徹底です。全ての契約を書面化し、報酬の算出根拠や権利の帰属といった重要事項を明確に記載し、十分に説明することは、信頼関係の最低限の基盤です。
 第二に、アーティスト自身のリテラシー向上です。自らの権利と義務を理解し、不利な条件に対しては、弁護士などの専門家の助力を得て、臆せず交渉に臨む姿勢が求められます。
 そして最後に、業界全体の自主的な取り組みです。公正取引委員会のガイドラインや、文化庁が示すひな型なども参考にしつつ、デジタル時代の実態に即した標準的な契約モデルを業界団体などが主体となって策定・普及させることが、不毛な紛争を減らし、行政による過度な介入を招かないための最も賢明な道といえます。
 クリエイター個人の創造性が競争力の源泉となる時代において、才能あるアーティストを公正なパートナーとして尊重し、その活動を最大限サポートする。そのような環境を整備することこそが、日本のエンターテインメント産業が世界市場で輝き続けるための唯一の鍵となるのではないかと考えられます。
2025年10月2日

執筆者:室谷総合法律事務所